そこは彼となし

日記のようなもの

北斎展へ行ってきた

 

月曜日、北斎展へ行ってきた。

2回目の北斎展で、1回目はフォロワーさんとご一緒させてもらったんだけれど、情報量の多さに圧倒されて観終わった後はうまく言葉が出てこない程だった。

今回は全てを血肉にするぞ!!と気合を入れまくって観に行ったので、いい感じの収穫が得られた。

そして何より、前回見たときに時間が止まったような感覚に陥った程感動した「胡蝶の夢図」をもう一度じっくりと見ることができて、本当にうれしかった。

 

 

人の多さは前回よりも多くて、連休明けだから空いているだろうと目論んだ中高年の方で溢れかえっていた。

 

 

 

 

胡蝶の夢図、ぜひぜひみて欲しくて画像を載せたくて仕方がないけれど、こればかり、せめて画集で見ないと、やばい...まじでいい...としみじみ感じることができないので、ぜひぜひ北斎の画集を買ってみてください...。

 

 

 

胡蝶の夢図の中の荘周の表情がほんとうになんとも言えない穏やかな表情をしていて、哀愁なのか穏和なのか、もう何とも言えない。

 

ただただ好きすぎてやばい。

 

それでいて北斎の色彩の巧みさ、特に青系の色の使い方が抜きん出ているんだけれど、この胡蝶の夢図では全体的に淡い感じになっている。北斎と言えば富嶽三十六景みたいな力強い感じのあるものを想像していたんだけれど、淡いものや繊細なものも北斎の作品には多くあった。

北斎日本画の手法のみならず西洋や中国の手法も学んで、さらには自分の画風が色あせないように画家として以外の仕事も行なっていたらしい。

 

 

 

北斎は長年、造形美というものを考えて物の形を描くことに専心してきた。画風の刷新を続けていたのも、描く対象と自分ができる限りの一体化をさせるためだった。

 

原文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
書き下し文
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

 

胡蝶の夢 - Wikipedia

 

初めて胡蝶の夢の説話を知ったのは中学か高校だったような気がするけれど、これを知ってから胡蝶の夢が大好きになった。そして荘子の思想がすごく好きになってずっと気になったままでいる。

 

この胡蝶の夢のお話は、「しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」という部分がとても重要なことに思えて、このことを物化というらしい。

物化を表したこの説話そのものが北斎が長年考え続けて現そうとしていたことのような気もする。

そしてそれが、胡蝶の夢図に実際に現れているんじゃないかな、と思う。

 

 

 ことばにしづらい程、穏やかな表情の荘周とその上でひらひらと静かに舞っている5匹の蝶をぜひ、みてみてください...。

 

(北斎展の図録には載っていました(歓喜))