そこは彼となし

日記のようなもの

薄やけ

 

 

文机を買った。

育った家には椅子がなく、いつも床に座って何かをしていた。なのであまり椅子に座ってものを読んだり書いたりという癖が浸透していなくて、案外床に座っていた方が身体が楽であったりする。

そして、ちょっとだけ江戸明治の暮らしに憧れを抱いている。眠けを飛ばすためにいつもよりイヤフォンのボリュームを上げて、机に顔を横に置いて目を閉じてみたりしてちょっとだけうれしくなったり、そんなことをしてみたり。

 

 

最近また眩暈がひどく、顔の痙攣も範囲が少し広がってしまった気がする。きっと疲れが溜まっているのだろうと思う。明日はお休みなので少しゆっくりしたい。

 

 

いつも、いくつかの本を並行して(というより気分に任せて)読んでいる。電車の中で、『ゴッホの手紙』を読んでいる。

 

 

ゴッホの絵を実際に見たことがなく、この本を読んでいる実際に見てみたい気持ちが大きくなった。

 

「だが僕は、石の壁にぶつかって、どうやらめちゃくちゃになっているのだ。他にどうしようがあるか。……いつの間にか、僕は、家庭で、一種の我慢ならぬうろんな人物、少なくとも彼らには信用してもらえぬ人間になりおわった、ということであれば、なんとかして、誰かの役に立とうとしても無駄ではないか。だから結局、どこかへ行ってしまって、適当な距離を保っていること、すなわち君たち全部にとって、僕という人間は存在しないということにする、それが道理に適った最上の行為だと考える。僕ら人間にとって、逆境にあり、不遇にみまわれる時期が辛いというのは、鳥たちにとって羽の抜け代わる時期が辛いようなものだ。その中にじっとしていることもできれば、新しくなってそこから出て来ることもできるが、いづれにしても人前でやることじゃない、決して愉快な見物ではないからね、やるべきことはただ一つ、身を隠すこと、よろしい、そういうことにしよう」

 

 

はじめは小林秀雄さんに興味を持っていた。「身交うとは何か」という文章を読んで感動を覚えて、ああこの人を知りたいと思った。

そういう時は大抵、少しその人の経歴,著書を漁ったあと、いつもその人に影響を与えた誰かについて調べ、その人を中心に書き物を読んでいくようなことがよくある。知りたいと思った人が書いたものをじかに読んだ時、この考え方に至ったのは何が影響しているんだろうと思うことが結構ある。それを探るのにその人に影響を与えた人についてまずよく知ることはけっこう大切なことだと思っている。

それが今はゴッホなんだなあ、ということだ。

 

 

 

ゴッホの絵を見たときに、色々と複雑、みたいなよくわからないイメージを思ったのはなんとなく当たっているかもしれない。ゴッホは何だか、色々と複雑な人生だったみたいだ。

 

 

「籠の鳥も、春になれば、何かの目的に仕えねばならぬところだとはよく承知している。何かすることがあるとはよく感じている、ができないのだ。それは何か。彼ははっきり覚えていない。彼は漠然とした考えを抱き、独語する、他の鳥たちは、巣を作り、卵を生み、子供を育てる、と。そして頭を籠の横木にぶつけてみるが、籠は相変わらず眼の前にあり、彼は苦しみのあまり気が変になる。通りかかった他の鳥が言う、この怠け者をごらん、気楽にやっているらしいと。さよう、囚人は生きている、死にはしない、彼の内部に何が起こっているかは、外から見てはわからない、彼の健康は大丈夫だし、陽が当たれば、多少は元気にもなる。が、やがて、渡りの時がくる。メランコリアの発病ー籠の世話をしている子供が、何でも欲しいものはあるはずなんだ、と言う、だが、彼は、籠を透かして、雷雨を孕み、暗雲低迷する大空を見据えているのである」