そこは彼となし

日記のようなもの

文体など

 

文体が気になっている。

一番心地よいと思うのは芥川龍之介の『杜子春』、そして小川洋子さんの文体。言葉のリズムが心地よくて、何か、やさしく温かいものを纏うような感覚になる。漱石先生の文体も好きだ。先のお二人とは異なって先生の文体は哀しさと少しの冷たさを感じる。だけれどもそれが何故だかとても、心地いい。

 

自分の文章もあんな風にできたらいいのになあ、と思って少し考えている。句読点の置き場所や漢字と平仮名のバランスに違いがあるのと、そもそも語彙力不足なのだなあ、と感じる。

 

学ぶことで自由度が増すことの一つに、自分の感情など、的確な言葉で表せるようになるということがあるように思う。ただ、的確な言葉を発見できるのは理想の状態で、実際はいくつかの誤差を含みながら言葉にしている。その精度を上げていくために、言葉を知る。

 

 

 

昨日の体調不良と以前から続いている寝不足のせいでまた精神にがたがき始めてしまった。精神的苦痛を吹き飛ばすには学んでいる時の興奮が最適なのだけれども、持続性がないのが困ったことだ。持続性がないならば、定期的に摂取することが必要になってくるのだが、そのためには気概が必要でそれを得るのがまた難しい。

 

 

 

一つ、自分に関しての問題を拾い上げると芋蔓式に全ての問題が浮上し始めて、考えるのが面倒になって止めた。社会的位置や経歴、家族構成や友人関係など、社会に溶け込むのは難しい。周りから「普通」を求められる度、なんだかとてもやるせない気持ちになる。普通になることができればきっと楽なのだろうな、と思う。よくまとめサイトなどに載っている悩みを持って、そこに書いてある事に共感して、これでいいんだ、と思ったりするのだろうか。それもまた曖昧で不向きだな、と思うと今の不安定な根無し草の状態は自分にとっては最適なのかもしれない。私はいつかどこかに根を張るのだろうか、と考えてみたりする。