そこは彼となし

日記のようなもの

蝉時雨の落ちる頃

八月は何となく心を落ち着けて物事に専心できる月になるような気がする。

 

あえて自分の苦手なことに突っ込んでその後、気分が沈み込むということが比較的多いので、もうそんな無理せず、できることをやっていこう。何よりも自分が楽しんでいることが大事であるのだから。

 

 

最近の電車本はリルケの『若き詩人への手紙』を読んでいる。リルケの生と孤独と死についての思考,考察がとても好きだ。何となく、夏目漱石と似ているような気がする。

漱石先生もそうであるような気がするけれども、人が表れるのは手紙がわかりやすいように思う。リルケ漱石先生も手紙の中でその人の好さが滲み出ていてとても好きだ。

 

そして読んでいて常に不思議なのは、リルケはなぜそこまで孤独を求めていたのかということなんだけれども、不思議に思うよりかは興味があるのかもしれない。

 

“しかし私は旅先では手紙を書くことを好まないのです、というのも私は最も必要な道具以上に、ちょっとした静かさとか孤独とか、あまりよそよそしくない時間とかが必要なのです”

 

めっちゃわかる...先生がもし同時代に生きていらっしゃって、ついったをやっていたらいいね爆押ししたいくらいだ(やめましょう)。

それにしても、先生の孤独を求めることは常に内に向かう|こもることであるような気がしている。内にこもる時には周りはうるさくてはいけないし、明る過ぎてもいけない。適度な静けさと適度な暗さが必要であったりする。そのために先生は、それに適した場所に身を置けるようにしていたのかな、などと想像する。

 

先生が「あなた」と呼びかける時、深い安堵を感じる。尊敬する先生もよく「あなた方」と私たちをのことを呼びかけた。先生の優しい目と落ち着いた声がどこかに今でもあるのだろう。

 

今日は父の誕生日であった。

夏は毎年、私にとって少し悲しい季節なように感じている。ノスタルジックになっちゃうんだな、多分。

それでも今日は素敵な一日にしたい。明度を高く。