そこは彼となし

日記のようなもの

白菊

一般的な(私たちが触れることのある)人間の死というのは、自然から乖離していると感じていたのがここのところ更にそれを感じるようになった。

 

お葬式に参加している時間、これは儀式である、という意識が常にあって感情が阻まれていた。何故だか不思議と儀式であることを意識すると滑稽に思えた。作り上げたところに周りが感情を乗せている。それを作り上げる人たちは演じているのだろうか、などと考えながら時間を過ごしていたので、何とも不謹慎だろうか。

 

また納骨されない骨はどこへ行くのだろうかとも思った。どこかの畑か何かの土地に埋められるのだろうか。そんなことを考えながら納骨をしていたのもまた、不謹慎か。

 

「死んだことに気づいとるか」という祖母の言葉に、機能しなくなった身体で死後にどう死を自覚するのだろうか、と思った。 死を自覚するならば、死ぬ直前までのことだろうかと考える。生きている間にはそれを自覚することができるし誰かに伝えることもできるかもしれないが、死後には身体がなく誰かに伝えることができず、生きているものの知る由がない。 

 

枯れた花が家にあるより外にある方が、自然の中に溶けているような印象を受けた。似合っているというのはおかしいか。家の中にあれば捨てられるが自然の中にあれば循環していく。行き先がわかるというのは一つ、大事なことかもしれない。