そこは彼となし

日記のようなもの

夕立はどこ

午前

 

時々やってくる、誰でもいいから縋りたい気持ちをどう落ち着けようかと、考えたいた。外に出ることをあまり好まないのは、誰かといる人たちを見て楽しそうだなと思うことを無くす為であるように思える。独りを何より欲していながら、誰かといることも欲しているなんて、面倒なことだろう。もう随分と誰かといたことがないのに、都合の良いように人を求めたって、上手く関わることなんてできないだろう。だろう、だけの話ではなく、実際今までにそうだったのだ。

 

ではどうしたものか、と考える。誰は遠い人でも良いのかもしれない。誰を何に置き換えることはできないか。などと。

 

とりあえず、シャワーを浴びよう。

 

 

午後

 

ついったで気になっていた夏休み子ども科学電話相談の放送をちょっとだけ聴いた。

一つ目から聴いて見たけれど、子どもたちみんなすごくよく見ているんだなあと感動していた。ああやって自分の中にある疑問を投げることができる場所があるのは素敵なことだな。ついったのタイムラインを追いつつ、ラジオを聴きつつ、何だかとても夏休みっぽい感じがしていい。

 

午前はシャワーの後、洗濯や掃除を終わらせて少し休憩した。

 

先ほど科学電話相談を聴く前に、量について本を読み始めたのだけどこれがとっても面白い。今まで理解に苦しんでいた時間,距離,速さや割合など、すべて「量」が理解できていなかったのだとはっきりと分かった。そして量を理解することが数学を学ぶ上でどれ程大切であるかも分かった。

私たちの身体の中に、量を認識する能力が備わっているというのも面白かった。

 

読み進め、もう少し涼しくなった頃に数列の続きをやろう。

 

 

猫とクジラ 二.

 

ずっと空を見ていた。

と、猫が言った。

フィボナッチやばい

 

フィボナッチやばそう

ツイッターでやれよって話 - 彼は誰烏

 

フィボナッチ数列に4月9日に初めて出会い、本日、実に113日目にして再会を果たしました。お久しぶりです、こんにちは。

 

 

今日は一乗寺方面へ行って微分を進めてきた。

京都造形大学が近いためか、大学生さんが多くてなんだかとっても身が引き締まった。隣の女の子たちのぽつぽつ聞こえる話し声から、大学という場所の想像図を描いてみたりした。ああやって誰かと勉強をすることもいいなあとか思ったりもした。

 

 

微分を進めていた中で、数列が現れたのでそこでストップした。随分触れていないので、数列の表し方なども忘れているような状態だった。家に帰ってから取り掛かり始めた。

 

 

微分に関しては、直接求めることができる「位置」から、直接求めることができない「速さ」に変換することみたいな感じの理解までできた。「速さ」は直接求めることができない、とあったのを読んで、ほ、ほんとだ...!!!とひとりで感動していた。

なんだか書いてみるとそんなに進んでない気がするけれど、微分を学び始めて一番すんなり理解でき始めた部分が「量」だった。

 

時間,距離,速さの概念的な理解はもちろん、その不理解が他の科目(特に物理)に響いて散々だったのを覚えている。何となく、自分は「単位」の理解ができていないんだと思って、『単位がわかれば物理がわかる』みたいな本を買ってみたりしていたんだけども、どうにも「単位」ではなく「量」そのものの理解ができていなかったらしい。

 

遠山啓さんの著書の中に、算数,数学のやり始めは「量」の概念を理解することからですみたいな内容があったはずだったので、積読になっているのをまた、引っ張り出そう。量もとても面白そうで、何となく論理学の言葉の定義に似ているなと思った。実際、量もひとつの言葉で概念を持たせているのだから似ているのかもしれない。まだ触れられていないので、わからない。

 

まとまった理解ができたあたりで日記じゃない方の更新をしたいなと思いつつ、まとまった理解はいつできることやらみたいな感じだ。

気長に、気長に。

 

 

今月あたりでどこまでいけるかな。バイトを減らした分とお気に入りの勉強場所を見つけた分で効率は上がりそうだ。

 

8月は自分の学びをとことん楽しむ月にしたいなあと思っている。

 

 

猫とクジラ 一.

 

真っ暗な世界こそ、光が溢れるんだよ。

とクジラが言った。

蝉時雨の落ちる頃

八月は何となく心を落ち着けて物事に専心できる月になるような気がする。

 

あえて自分の苦手なことに突っ込んでその後、気分が沈み込むということが比較的多いので、もうそんな無理せず、できることをやっていこう。何よりも自分が楽しんでいることが大事であるのだから。

 

 

最近の電車本はリルケの『若き詩人への手紙』を読んでいる。リルケの生と孤独と死についての思考,考察がとても好きだ。何となく、夏目漱石と似ているような気がする。

漱石先生もそうであるような気がするけれども、人が表れるのは手紙がわかりやすいように思う。リルケ漱石先生も手紙の中でその人の好さが滲み出ていてとても好きだ。

 

そして読んでいて常に不思議なのは、リルケはなぜそこまで孤独を求めていたのかということなんだけれども、不思議に思うよりかは興味があるのかもしれない。

 

“しかし私は旅先では手紙を書くことを好まないのです、というのも私は最も必要な道具以上に、ちょっとした静かさとか孤独とか、あまりよそよそしくない時間とかが必要なのです”

 

めっちゃわかる...先生がもし同時代に生きていらっしゃって、ついったをやっていたらいいね爆押ししたいくらいだ(やめましょう)。

それにしても、先生の孤独を求めることは常に内に向かう|こもることであるような気がしている。内にこもる時には周りはうるさくてはいけないし、明る過ぎてもいけない。適度な静けさと適度な暗さが必要であったりする。そのために先生は、それに適した場所に身を置けるようにしていたのかな、などと想像する。

 

先生が「あなた」と呼びかける時、深い安堵を感じる。尊敬する先生もよく「あなた方」と私たちをのことを呼びかけた。先生の優しい目と落ち着いた声がどこかに今でもあるのだろう。

 

今日は父の誕生日であった。

夏は毎年、私にとって少し悲しい季節なように感じている。ノスタルジックになっちゃうんだな、多分。

それでも今日は素敵な一日にしたい。明度を高く。

 

 

Schatten der Wendel wird Licht.

微分にやっと少しだけ手をつけ始めることができた。勉強体力が受験勉強をしていた時に比べると愕然落ちているので、もう一度つけなおさないといけない。とは言っても、興味の赴く方向性を整えればそれ程時間がかからないような気もしている。そこらへんは楽観的に行こう。

 

それより、微分、ものすごいことなのではとやっていて思った。微分自体はニュートンが生み出し、ライプニッツが確立させたという感じのところだけどこかで読んだことがあるけれど、そのあたりもしっかり読んでみたい。

ああ、そうなると相対性理論の成り立ちあたりを読んで見たらいいかもしれないな、などと胸が躍る。ほかのどこかで、曲面の曲がり具合も微分で出すことができるらしいことを見たことがある。「曲面がそこにあるとすれば、その面の曲がり具合を知りたいと思うのは必然である」みたいなことが書かれていて笑った。確かに、めっちゃ知りたい。

 

複素数微積をやった後、念願の複素解析の勉強に進めるらしい。早く進みたい。

何もする気が起きず、とりあえずやばい。海老蔵さんの「休みになった時に果たして私は正常でいられるのか?」の正常でいられていないver.って感じでやばい。

 

もうすぐ四十九日となる。

 

ずっと死に対して何も感じないのではないかという恐怖があったというのに、むしろ死だけであったらそうであったかもしれないが、死以外のことが多過ぎた。様々な感情が頭の中でごちゃ混ぜになっており、毎日が疲れる。

 

ほぼ毎日が休みのようになっているような不安定な状態で、むしろ正常でいられるわけがないか、などと考える。

 

体重がかなり減っていた。精神ダイエットか何かかな?

 

 

あまり笑えないのでとりあえず食べなきゃと思って食べるが途中で気持ち悪くなって食べるのを止める。完全に精神的にきてるやつじゃないか。

 

 

ラーメンを食べたり水族館へ行ったりと、紛らわそうとしているがそれで根本的な解決になっていないことも重々承知している。

 

 

八月に帰った時には父の彼女さんのお見舞いに行く予定になっている。実際は不倫状態だった期間もあったりして、その間のちょめちょめにも出くわしたりしていたあの時の感覚が思い出されたりしてほんとやるせない。

 

大人でさえ自分のことしか考えていないのだから私だって自分のことだけで精一杯である。ほんとはあんまりお見舞いに行きたくない。離婚加速度を上げた一因でもある人になぜお見舞いせねばならんのか。分骨したいなら勝手にしてくれって感じである。

 

性格のよい人間を演じなければならない。いつまで保つのやら。

 

幸せに溺れられたらいいのに。

 

こんな感じで超絶ネガティブモードから抜け出せないでいる。そんな時もそんな時こそ学んだ方がいいんじゃないか、私よ。

 

何だか色々なことがやけくそになってきている。何で先に行ってしまうのかな、ずるいなと思ったりもする。もういなくなってしまえば0に等しいから少し羨ましくもある。こんなこと母に言ったら泣き出されてしまうだろうか。親不孝だな。

 

こうして書くと少し気が楽になる。見ている方は全く気分がいいものではないけれども。これも紛らわしのひとつなのだと思う。勘弁。