そこは彼となし

日記のようなもの

猫 一.

 

 

静かな朝、冷たい夜、彼が今どこにいるのか僕は知らない。

 

日に日に寒くなるので眠っている時間が多くなった。

目を薄く開けると、やわらかい光が反射した。

 

 

飼い主は数日いない。飼い主が「いってきます」と言うと数日帰ってこないのだ。だから「いってきます」と飼い主が言うのを聞くと、僕は、わかったと言う。

 

まだ眠いな、もう少し眠ろうか。

目を閉じて彼は今、どこにいるのかおもいを馳せる。

 

 

 

足全体が重たい。

昨日はシフトを詰めすぎて朝から夜まで動いていた気がする。そもそもの体力がなさすぎかな、と思ったけど、シフトの相方さんから働きすぎですと言われた。いつもはそんなことないから大丈夫。

 

 

一昨日と昨日あたりは久々にけっこう沈み込んだな、と思った。諦めの意識は常にあって、それに抗って生きている。諦めに沿った時はその時はお終いだ。常にあるからいつも何かぎりぎりなんだろう。

 

人の言葉とか希望とか現実で、何もうまくいかない人を見過ぎたのかもしれない。幼少を引きずるのはこういうことか、と気付いた。記憶は曖昧で薄れているのに、感覚が根強くひっついているんだなと思った。

もし幸も不幸せも同じであったらどうだろう。この前みたく、ひとつをふたつとして見ているだけだったらどうだろう。

絶対的に不幸でも、その先の分岐点を見落としていたら、どうだったのかとか、そんなことを考える。気づくためには目が必要だ。目を養わないと、見落としていたものは見ることができないし気付くことができない。

目が見えなくても感覚であれば何でもいい。それに気づく何かを持ち合わせて歩きたい。

 

 

そういえば随分と学生身分を離れている気がする。それに学生という学生をしてなかった気もする。

そもそも何かに属している状態を随分と離れている気がするけれど、それが根無し状態を加速してるっぽさがある。

どこかに属してみようかな、と思い始めた。

 

 

 

 

 

ちょっと前に自分オンリーのライングループを作成してメモとして使い始めたらその機能しか使うことがなくなったアプリと化しました。

 

近頃は精神がふらついてすぐに底に落ちるので、回復までに2時間から3日ほど要していて時間ロスが激しい。そもそも精神的に安定していた時期なんてここ数年であったかしらと思うと、ほぼゼロに近く、いつも何かぎりぎりなところをうろついているような感覚だ。いつか落ちて戻れなくなったら、それはその時のことだな。

 

夢を見ていて、それはもっと昔からあったことだけど、これは現実の過去で見たことだったかそれとも夢で見たことだったか、もしくはどちらもなのか判断できない時がある。時偶、自分はどこに生きているんだろうと思うことがある。どこと言うかどちらにと言うか。変なことを考えるなあと思うけれど、私は夢を見ている方が、とても自由なんだ。

 

ターニングポイントでもし神さまがいるのなら、その神さまは死を回避させようとしているのか、それとも死に向かわせているのかわからない。なんであのタイミングなんだろう、と思うことがぽつぽつある。無理やりつなぎとめたって、そんなのつらいだけじゃないか。生命の活動を止めようとすることと自分の人生を止めようとすることは全く異なっているとどこかで聞いたけれど、それはひとつをふたつとして見ただけで、実際のところ同じであるような気がする。

 

母から死になさんなよ、と電話で言われた。けれど実際私は、もういいんだけどな、とずっと思っている。どうして耐えれるんだろうか、私はまだ耐えれるだろうか、最近少しだけまた、ちょっと危ないんだな。

 

結局報われないうちの一つなんだろう、とか思うと、報われるか報われないかなんてものもどうでもいいから、とにかく早く、過ぎ去ってしまってくれたらいいのにと思う。ずっとこうして、耐えているのはとてもつらいかも。

 

けれど残った人たちがどのようになるかという想像はそれほど難しくない。自分の周りには誰もいないと思っていても、実際には何かに繋がっていることを知っている。だからもし死んだとしたらきっと私は残った人たちをさらに狂わす要因になるんだろうなというのもわかっている。そして大切だと感じる人ほど大きく狂わせてしまうんだろう。だから耐えているけれど。

 

いっそのこと音信不通にでもして何処かへ飛び出してもいいんだけれど。

その方が楽かもしれないね、とか思ったり考えたりしている。

 

 無理して生きなくていいんじゃないか、とか

 

 

猫とクジラ 六.

 

 

そろそろ遠くへ行かなきゃならない、とクジラが言った。

 

クジラはいつもある季節になると、どこか遠くへ行ってしまう。どこへ行くのか、僕は知らない。

 

じゃあ少しの間、会えないね、と猫が言った。

 

そうだね、とクジラが目を閉じた。

 

 

僕がこの体じゃなかったら、君の見る景色を僕も知ることができるのになあ、と猫は思った。

 

 

 

 

今日は一日のほとんどを眠っていたような気がする。

仕事と人に慣れていないからか疲れが結構溜まる。生活リズムも朝から夜に切り替わったので、その辺りも慣れていかないと。

 

 

この前の店長さんのお話がずっと頭にある。

 

ずっと頭にあるのは、この類の話に関心があるから。実際父は、50を過ぎて夜勤のアルバイトをしていたし、母は早朝のパートをしているし、つまり安定した職にはついていない。年齢が上がるにつれて職に就くことはむずかしくなっていくようなシステムがある。そして生活の質も低いままから抜け出すことができない。生活をする,暮らしを考えるよりも生きていくのに精一杯なんだ。

時々、自殺をほのめかす言葉を店長さんは言うので、自殺したいと思ったりもするし実際しようと試みたりしてしまうよなあ、となんだかやるせなくなる。

抗っても抗っても、最後は抗う気力すらなくなって、何も報われないまま終わっていくのはなんだかとてつもなく寂しい話だ。

例外はあるだろうけれど、やっぱりほとんどは生まれたところで決まってしまっているようだ。そしてメディアは例外を好んで発信する故に、努力が足りないとか自己責任だと言う話になってくるんだろう。そうではなくて、全体の底上げをなぜ考えないのか、といつも疑問に思う。淡い希望を抱くより、確かな確率を上げる方がはるかに効率的だろう。

 

そうは思っているけれど、私は何もできないんだな、いつになったらできるだろうかと考える。

まずは自分自身が経験しないといけないことは確かであるので、少しずつでも歩くしかないんだろうな、と思う。

 

 

 

 

せっかく晴れの日に洗濯物を干せたのに、今日は雷雨で、もし雨に当たっていなくても湿気でまた乾かさないといけないなあ、と思いながらのそのそとお布団から這い出た。

 

最近、睡眠時間が4,5時間で、普段であればたっぷり7時間寝ているのに、そんな短な睡眠で倒れないかな、と思いながら起き上がる。相変わらず眩暈は少しあるので注意はしておこうと思う。昼寝ができたらいんだろうな。

 

 

 

前に、私のやろうとしていることについて、3年くらいでやっていそうだ、と言われたことがあった。その時はとても嬉しかったけれど、よくよく考えるとそんな短期間でできるようなことでもなく、それは私自身が経験をしなければならないということから、短期間では済まないということになるのだと思う。

大学へ行かなくてもいいんじゃないか、という言葉に対して、私は、大学へ行ってみないとそこの空気を吸うことができないので、そこがどのような場所かの判断を自分ですることができないから、行きたい、と言える。

そして何より、学んでみたいことが(ここからまた変わっていくかもしれないけれど)、以前より明確になった今、やはり行ってみたいと思う。まだまだ行けるようなレベルに自分が達していないので、そこはやはり、自分のやり方でこれからなのだろうけど。

 

「大学の講義はこんな感じなんですよ」と、すごく楽しそうに先生が言っていたのを思い出す。先生は本当に大学で学んでいるのが楽しかったんだな、と思った。大学を出てからも学び続ける中で、さらに楽しさは増幅していったんだろうけれど、その時その場の空気に触れた感動みたいなものが、先生の中でずっと疼いているんだろうなどと、想像をする。

 

 

 

 

数学あたりの分野を書いているノートで今使っているものが、想像以上にページ数が少なすぎて早く終わってしまい、これはもう少し分厚いものが欲しいなと思って、先日見つけたよさげなノートを買ってきた。

空白のインデックスが付いていて、そこに月を記して何について勉強していたのかを月毎調べやすくなりそうだ。いつもページに記した日付を追って捲っていたので、だいぶわかりやすくなりそうだし、ノートが終わった後にどの月が進捗多かったかなども可視化できていいかもしれない。精が出るな。

 

 

夕方-夜にかけてのバイトにすると、朝からバイト前までの時間が結構あって、しかも自分の脳みそが一日の中でもよく働いてくれる時間帯なので、いい感じのリズムが取れそうな気がする。

三月が終わる頃には引っ越しをして、また新しい場所で一番望む形の仕事が少し、できたらいいなと思う。