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数学の学び方・教え方 (岩波新書 青版 822)

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数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)

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量子コンピュータが人工知能を加速する

量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

量子コンピューターが本当にすごい (PHP新書)

習文

 

 

例えば、埃の匂いがかすかに残るような廃墟と化した場所で流れる音は何かということだ。それは鳥の声である。

 

空襲の荒地となった土地の図書館には、襲撃と火災を免れた本棚が3つ残っていた。人々はその本棚で怯えている本たちを丁寧に手に取って、瓦礫の上に座って読み始めた。人々は飢えていた。何に飢えていたかというと、活字に飢えていた。

 

 

子どもはよく見ているしよく理解をしている。例えばお行儀をよくすべき場所で騒ぎ立てはじめる子どもがその母親の顔を伺っている時の目をあなたは見たことがあるか。子どもは自分を見てもらうためにはどうすればよいのかということを知っている。それがほんとうに見てもらえるか否かは知らないままに。

 

 

「僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいかは知らぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく。ふだんそこが行詰りになるところで決して止らぬのだ。僕には僕の知らない奥底がある。すべてのものが、いまその知らない奥底へ流れ落ちてゆく。そこでどんなことが起こるかは、僕にはちっともわからない」

 

 

今の生活と改善②

 

crepus.hatenadiary.com

 

この疑問は「社会的な動物としての人間」か「貨幣経済」,「貨幣の価値」に分類されるような気がする。大きく見ると「生きる」ことになるけれど、身近に置くと「生活をする」というのに分されると思う。

 

生活をするために働いて生活をしてまた働いて...と延々死ぬまでやり続けることが生きることなんだろうか。

疲れた顔どころでなく無表情な顔をして働くカフェのお姉さんや熱があるのに代わりの人がいないからと出勤してきた昨日の相方さんなどを見るとよくわからなくなる。

 

お金を稼ぐ前に、お金を使って交換するものは本来自分でも作れるものというのが結構あることをよく忘れている。

前々から気にしていることだけれど、それは時間とお金の交換でどちらに比重があるかという問題で今の社会はお金に比重を置きすぎている気がする。

私は今、週4でバイトをしていて他の社会人の人たちに比べると少ないけれど、それでも労働量が自分の体力に合っていないために回復するのに休みが潰れるし、自分の勉強したいことを勉強する時間も減ってしまうし、何より生活を保つまたは改善するための気力が出ない。

 

 

例えば今、一ヶ月稼ぐうちの半分は家賃になってる。ただ存在するだけで労働した自分の体力とか時間が自分が存在するために消えていくって何だか相当な矛盾でしか無いような気がしてならない。絶対縄文時代の暮らししていた方がいいだろ、とか思い始めて、突き詰めると根暗精神のおかげで、存在したくない...と思い始める。

 

それでも存在してなきゃならないので何か方法を考えないといけない。

とりあえず、家賃を減らすためと聴力過敏の対策のために引越しを年内か年明けにしようと思う。

 

あと、先の矛盾を解消するためにはこの遠回りな方法を変えてみる必要がある気がする。もっと直接的な方法が必要ということなんだけれど、縄文時代の暮らしをした方がいいと思うのはそれが直接的な方法だから。生きるために行なっていることがお金を介さずに直接自分の生活に繋がっているような生活をすればいいんじゃないかな、と思う。

あとは、お金自体の実態を失くして例えばネット銀行やビットコインみたいなもので管理ができればその中で循環をすることができるのでそれも遠回りな方法を少し近道にする方法になる。

 

crepus.hatenadiary.com

 

今は上の中身を実際にやっていて、Amazonの定期便で一ヶ月の基本的な食料、11月は試行期間でお昼ご飯の一ヶ月分をある程度買った。

買い物に行かなきゃいけないと思うことも結構ストレスで(怠惰)、実際に買い物に行くとそれだけで疲弊するので(体力がない)、こうやって少しでも自分に合わせるような生活の仕方を工夫してやって行くのは大事だなと思った。

 

書いていて思い出したけれど、以前完全な引きこもりと化したことがあってその分ネットの繋がりが濃くなって面白かった時期があったんだけれど、そこで重度のニート予備軍と言われたのを思い出した。

それを言われた時に、どうやって生きていこうかなとぼんやりとした不安を抱いたけれど、重度のニート予備軍なりにできる生き方があるみたいだよ。

 

そういう生き方を推奨している社会哲学者の人がいた気がしたんだけれど名前を忘れた。

 

最近は、早く諸々の書面上の手続きがネット上でできるようにならないかなということと、クレジットカードとデビットカードを持っていれば外に出ても大丈夫みたいな身軽さが欲しいなとか思ってる。

 

 

 

数年前に飽かずに聴いていた曲のメロディがふと頭の中に流れてきたので数年ぶりに聴いていた。

不思議なことで、忘れていた歌詞なども曲に乗せると思い出した。

曲の雰囲気は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のタイトルに似ている。

 

 

ここ数日ほどもうだめだという感じが漂っているしそういう感じしかない。

そんな時は一日中引きこもっている。

一週間分の家事を適当に消化しつつ消化してると体力がなくなってくるので横になる。

 

 

 

コンビニで働いて廃棄をもらうことがあって食べるけれどあまりおいしくない。

セブンのパン類はそもそもあまりおいしくないというのもあるけれど、何だか簡素というか空疎というか味も香りもしないのだ。

たぶん心が無いからなんだろうなあ、とぼんやりと思った。

 

金子みすゞさんの詩を時々どこかで見る。

あの人の詩は生死とその循環をすごく真っ直ぐに見つめていて、それでいて深い悲しみとやるせなさみたいなものを感じる。

 

そしてキノの旅を見た。

これは単にキノの旅が好きなのと今期で再登場したので2003年のキノの旅を見たかったから見始めた。

最初の方の話で、キノは撃ち殺した兎に捌く前に跪いて黙祷を捧げた。

キノの旅宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を参考にしているらしい。

 

コンビニでご飯を買って食べているとよく以前まで絶対に言っていた「いただきます」をなぜだかいい忘れてしまう。

何かの命をもらって自分を生かしてもらっていることをついと忘れてしまう。

そんな悲しいことってあるだろうか。

 

 

 

自分は生きるのがとても下手な人間だと思っているけれど、それでも生きなきゃいけないのであれば所作を大切にしたいと思っている。

祈りのような気持ちが行為に現れるというのは、その人の中の神さまに出会うような感じだ。

祈りみたいなものでなくとも、ただの心でもいい。

そして所作は、時間を大切にすることと同じことでもある。

 

 

自分の体を少し大切にしなさいと注意を受けた。

そこらかしこから痛みが出て、何だかそういえば立つのが辛いなというところまできてやっと休まないといけないということに気づくのを止めよう。

 

費用もかさむしどうしようか悩んでいたけれど、どちらにせよ大した金額の差が無いことがわかったので、費用を整え次第、自分の生活環境を少しずつ整えていこうと決めた。

とりあえず来年までにバイトのシフトを一つ減らすことができればいいな。

 

 

 

 

何だか最近の更新頻度が高いのは、とりあえず何でもいいから頭の中から考えている事柄を取り出して置かないといっぱいいっぱいになってしまうからな気がする。

 

 

父の記録を文字起こししていると、誰かが書いたものを再び自分が書くというのは、文字を書くというよりも描写、絵を描いているようなことに近いなと思った。自分の思考を離れて一人で立つことのできる文章の姿を写し取っているように。

 

 

最近音のストレスがやばすぎて体の不調が日に日に増している気がした。

ずっと続いている目眩も時々酷くなってバイト中倒れないようにどこかに掴まっているような程度になってきていた。

どうしてこんなに音の多い世界で生きれるんだろうとすごく不思議でならないけれど、育ってきた環境というのはほんと今の今まで深く影響するのだな。

 

前々の家で、テレビがつきながら風に揺れて窓にかすれる木の葉の音や冷蔵庫の起動音、朝外に出た時には隣町の電車の走る音が聞こえた。

それを家の人に言うと決まってそんなの聞こえない、と言われた。絶対に鳴ってるからもっと近づいて見て、と言ってやっと聞こえる、と言った。テレビが嫌いなのは誰かがテレビの音量を調節したものは大きすぎて頭が痛くなることも起因している気がする。

 

 

ここは少し音が多すぎる。音だって情報の一つだから頭の中が情報で溢れかえる。そうすると思考ができなく鳴って少しパニックになる。

もう少し静かな場所に行かなきゃならない。

行って見ないとわからないことの方がいいから、こうして京都に来ただけでもよかったけれど、次はその場所の中でまた適している場所を見つける番だ。

 

窓にかすれる木の葉の音は気になるけれど心地よさが混じっている。

けれど夜が更けても道路を走り抜ける車の音などはどうも心地よさよりも静かな眠りを妨げるだけのものに思える。

 

 

きちんとたった一つの音でも聞いていたい。そうなると多すぎて大きすぎると駄目なんだ。

蛙の飛び込む水の音が聞こえる程度、静かな場所にいるのが一番身に合っている。

 

 

北斎展へ行ってきた

 

月曜日、北斎展へ行ってきた。

2回目の北斎展で、1回目はフォロワーさんとご一緒させてもらったんだけれど、情報量の多さに圧倒されて観終わった後はうまく言葉が出てこない程だった。

今回は全てを血肉にするぞ!!と気合を入れまくって観に行ったので、いい感じの収穫が得られた。

そして何より、前回見たときに時間が止まったような感覚に陥った程感動した「胡蝶の夢図」をもう一度じっくりと見ることができて、本当にうれしかった。

 

 

人の多さは前回よりも多くて、連休明けだから空いているだろうと目論んだ中高年の方で溢れかえっていた。

 

 

 

 

胡蝶の夢図、ぜひぜひみて欲しくて画像を載せたくて仕方がないけれど、こればかり、せめて画集で見ないと、やばい...まじでいい...としみじみ感じることができないので、ぜひぜひ北斎の画集を買ってみてください...。

 

 

 

胡蝶の夢図の中の荘周の表情がほんとうになんとも言えない穏やかな表情をしていて、哀愁なのか穏和なのか、もう何とも言えない。

 

ただただ好きすぎてやばい。

 

それでいて北斎の色彩の巧みさ、特に青系の色の使い方が抜きん出ているんだけれど、この胡蝶の夢図では全体的に淡い感じになっている。北斎と言えば富嶽三十六景みたいな力強い感じのあるものを想像していたんだけれど、淡いものや繊細なものも北斎の作品には多くあった。

北斎日本画の手法のみならず西洋や中国の手法も学んで、さらには自分の画風が色あせないように画家として以外の仕事も行なっていたらしい。

 

 

 

北斎は長年、造形美というものを考えて物の形を描くことに専心してきた。画風の刷新を続けていたのも、描く対象と自分ができる限りの一体化をさせるためだった。

 

原文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
書き下し文
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

 

胡蝶の夢 - Wikipedia

 

初めて胡蝶の夢の説話を知ったのは中学か高校だったような気がするけれど、これを知ってから胡蝶の夢が大好きになった。そして荘子の思想がすごく好きになってずっと気になったままでいる。

 

この胡蝶の夢のお話は、「しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」という部分がとても重要なことに思えて、このことを物化というらしい。

物化を表したこの説話そのものが北斎が長年考え続けて現そうとしていたことのような気もする。

そしてそれが、胡蝶の夢図に実際に現れているんじゃないかな、と思う。

 

 

 ことばにしづらい程、穏やかな表情の荘周とその上でひらひらと静かに舞っている5匹の蝶をぜひ、みてみてください...。

 

(北斎展の図録には載っていました(歓喜))

 

 

 

 

 

前髪を切った

 

前髪は何度切っても真っ直ぐにならない。

 

部屋を移してから片付けが進まない。片付けをする体力が残っていないまま日が過ぎていってしまっている。

Amazonの定期便を使ったりして、かなり食費がいい感じになっているような気がするんだけれど、バイトがある日はどうしても時間帯的に家でご飯が食べれない。

何も食べずにバイトへ行く手もあるんだけれどもかなり激務な時が多いので、食べずに行くと多分倒れる。なのでどうしてもとりあえず何かお腹に入れておこうとなってしまって、そういう時のご飯はいつも吐きそうになりながら食べてる。

基本的に自分がお腹すいたな、ご飯食べたいな、と思わないとご飯を食べないので無理に食べるご飯というのは体が拒絶する。

学校に通っていた時もそういうご飯を食べ続けていたから、時間に縛られる生活を極力避けたい。バイトも本当に3月いっぱいで辞めれるといいなあ。

 

来年の3月に予定している引越しは、自分の自分の身の置き所を変えたいからするつもりで、もう少し学びやすい環境を近くに置きたいと思っている。

京都に来ただけでもかなり近づいたんだけれど、ある一定の距離から離れてしまうとその後どれほど離れていようが近かろうがあまり関係ない心理的な距離見たいなものがあって、アクセスしにくくなってしまう。

そこでもう一歩踏み込もうという感じ。

 

3月で引越しだとちょうど京都に来てから1年とかになるので、1年前の記録などを読みつつ年末年始でこの先を考えてみようかな。

 

 

 

早く歳をとりたいと数年前からずっと思っていた。それは思春期とか多感な時期とかそういう中にいるときの不安などを包み込めるくらいの懐が歳をとれば身についているように思えたからだった。

最近ぽつぽつ30代の方に会うことが多くなって、あの年代は歳からくる安定感とその前の年代の若さの両方を兼ね備えていて面白いなと思った。

 

 

 

 

京都に来る前に先生にお会いして、こう言ってもらってから最近やっと自分がやろうとしていることに手をつけ始めれるようになって来た気がした。

結構せっかちなのかな、と思ったりする。そんなすぐにはできないことなのだから数年、数十年単位で見据えておくべきなんだろう。

 

 

 

切り捨てるような感覚と、丁寧に扱う感覚の両方が生活の中に共存している。

生まれた時からすでに余生が始まっているのなら、本当に私は時間を大切にしていたい。

もう少しうまくできたらいいんだけれど、それはこれからまた練習していけばいいことだ。